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2009年1月21日 (水)

2兆円の罪

サブプライム不況の対策の一つとして、2兆円の定額給付金が決まった。国民1人当たり12000円を現金で支給するという話だが、その方法をめぐって紛糾している。実務を行う自治体は悲鳴を上げているようだ。しかも、その効果がどれほど見込めるかと言うと、限りなく薄くばら撒いても消費振興には役に立たないだろう。

 かつて平成不況の最中に、老人子供に10万円、総額5000億を使ったことを思い起こせば、その愚策の程がわかる。

 我々300万社にのぼる中小企業を保護、育成、監督する中小企業庁の年間予算は約2000億、定額給付金の1/10に過ぎない。ましてや、歳入が45兆円の規模の予算の中から、これだけ搾り出して使ってしまうとは剛毅なものだ。というか無責任きわまると思う。自分で稼がない官僚や政治家だからこそ思いつくのだろう。しょせん自分の腹は痛まないのだ。

 政府与党の自民・公明が考え出したのか、それとも官僚の思いつきかは知らないが、この2兆円はどのみち赤字国債を増発してまかなうことになるから、子孫のためには罪作りなことである。国民の人気取り、つまりは目の前に迫った選挙の票のために税金を使うのだ。

 塩川正十郎氏は「相続の生前贈与分を1000万円まで無税にすれば、老人は安心して渡せるし、必要としている子供はその金を使うから、効果は大きい」と提案している。また氏は「企業の交際費枠400万円を大幅に緩めよ」とも言っている。交際費には盆暮れの贈答品や顧客との食事代なども入る。企業は400万円以上使った場合は半分を税金として取られている。つまり3000円のハムとかサラダオイルを贈答すると4500円お金がかかっているのだ。これを正味3000円ですむようにせよという。

 減税以外に、たとえばソーラー発電の補助金に回せば、家々の屋根で発電できて自然環境も良くなるだろうし、発電設備や取付費用は回りまわって水滴のように各業界を潤すと思う。これらが良策と言い切る自信はないが、少なくとも迎合のばら撒きよりはましと思うのだが、残念なことに着々と準備が進んでいるようだ。

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2009年1月16日 (金)

政商について

友人のブログから転載 

年が明けてまだ15日、1月のちょうど中間、もう腹の立つことが出てきました。
せめて松の内までは、多少とも穏やかでありたいと願っていたのですが、それも
かなわなかったのです。

  「かんぽの宿」譲渡を正式発表=オリックス不動産にー日本郵政

    日本郵政は26日、保養・宿泊施設「かんぽの宿」をオリックス子会社
   のオリックス不動産に譲渡することで合意し、契約したと発表した。
   譲渡額は非公表。対象は全国70施設と首都圏にある社宅9ヶ所。
                     (2008/12/26 時事ドットコム一部抜粋)

  「かんぽの宿」譲渡見直しを=日本郵政に要請へ-鳩山総務相

   鳩山邦夫総務相は6日夜、日本郵政が保養・宿泊施設「かんぽの宿」70
   施設をオリックス子会社のオリックス不動産に譲渡する契約について、
   「こういう景気の状態で焦って売るのはどうか。なぜ一括譲渡なのか
   疑問を感じる」と述べ、契約見直しを求める意向を明らかにした。
   鳩山総務相は見直しを求める理由として、「オリックスの宮内(義彦)
   会長は規制改革会議の議長をやり、郵政民営化の議論もそこでされた。
   そこに一括譲渡となると、国民ができレースではないかと受け取る可能
   性がある」と説明。併せて「人気の高い施設は地元の資本で買ってもらい、
   地域振興に生かすべきではないか」との考えも示した。
                           (2009/1/6 Yahoo!時事通信)

 驚きましたね! 郵政民営化の裏で、こんなことが平然と行われていたとは。
郵政事業の民営化については、大きな政治課題として一応決着はついたのですが、
まだまだ火種がくすぶっており、この様な重大な案件については、疑念を抱かれない
よう慎重の上にも慎重に行われなければならないことは言うまでもありません。

 今、郵政事業は、日本郵政株式会社という民間会社として経営されていますが、
つい昨日までは国営として国の財産であったわけであり、勝手な振舞いが許される
べきでなく、国民に納得いく形での財産処分が求められるのは自明のことでしょう。
わたしは郵政民営化論者ですが、このような振舞いには本当に腹が立ちます。

 問題点を整理してみましょう。

 オリックス宮内義彦会長は、総合規制改革会議の議長を務め、行政改革や
   規制緩和の取りまとめ役として、法律改正などの情報をいち早く耳に入れる
   ことができるとともに、自社に有利な政策を進言できた存在であった。したが
   って、本来であれば、オリックスは入札を辞退するのが良識というもの。

 日本郵政は譲渡額を非公表としているが、昨日までは国有財産であり、当然
   公表すべきであり、これは義務でもある。

 当然、かれらは、法律的には違法行為をしているわけではなく、合法のベール
   をかぶっている。

 これを見て、「胡散臭さ」「薄汚れたもの」を感ずるのはわたしだけでしょうか。今回
の譲渡劇は、時代劇風に言えば、悪代官・悪徳商人の“お主もよくやるのう!”が
ぴったり。

 これらを一般的なわかりやすい表現をすれば、次のようになります。
     出来レース
     八百長
     お手盛り

 宮内氏は過去、村上ファンド事件の時にも登場した、いわくのある経済人ですが、
わたしはこういう人を「現代の政商」と呼びたいと思います。現代の政商は、法律に
違反することは一切行わず、いち早く政策情報を入手できる立場を得、自らに都合
の良いように仕向けたり、また、自社を他社に先駆けて対応させる、まことに狡知に
長けた商売人なのです。

 政商が手がけた政策は、素晴らしいものもありますが、それはあくまで結果論で
あって、倫理、道徳、歴史、国民性に立って議論したものではありません。したがっ
て、失ったものも数多くあることをよく認識しておかねばならないのです。

 かれらの精神風土には、実業倫理、公徳心と言うものは無く、国家、歴史、国民性、
国民経済なども認識の外であり、あるのは自社、自己の利益だけといっても過言では
ありません。

 それに引き替え、鳩山邦夫総務相は立派ですね。法務大臣の時も、「死刑」を粛々
と決裁し、法の番人としての立場を貫かれた方ですから、あらためて尊敬します。

  正義感をもって対応する。『李下に冠を正さず』ということは大事だ
                                    (鳩山大臣)

 鳩山大臣は政治家として、それなりの思惑があって一連の発言をしているとは思い
ますが、それにしても、今、現在、どの政治家が、正義感を持ち、李下に冠を正さない
でしょうか。こんな言葉はついぞ聞いたことはなく、大臣の素晴らしい言葉に脱帽!

 このブログでも一度取り上げたことがありますが、わが恩師、碩学、警世の京大
教授、故高坂正堯先生は、このように書いておられます。

 最近とみに私論と公論、私益と公益の区別がつかなくなってきた。今日では私論
を合わせれば世論となり、私益を合計すれば公益になるかのように考えられている。
しかし、実はそうではない。政治や経済、さらには教育や文化の問題を論ずるとき
には、公共の利益が存在することを前提にし、公共の立場に立つように努力しなけ
ればならない
』                ―「現代日本の政治経済」よりー

 まさに、現在のわが日本にぴったりの箴言。政治を食い物にする、胡散臭い人、
薄汚れた人は、表舞台から退場していただき、国家、国民のことを真剣に考える人
をリーダーに選びたいものです。

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2009年1月 9日 (金)

対立する自然

友人のメールを転載:

 人間は自然の中で生きていますが、その実感は、年々薄れてきていますね・・・

特に、ここ赤坂や銀座なんかで暮らしている都会生活者は、自然を目にすることが少なくなりました。

 道路や建物は自然ではない99%人工物ですし、浜離宮とか日本庭園も自然とはいいがたい造形ですし、どれほど自然のように装っていても、やはり人工的な自然ですね・・・。

「自然」とは、森や川や海であり、そこに住んでいる様々な生き物であったり、「人間」をのぞくすべての森羅万象ですかね・・・

 私も知りませんでしたが、「自然」という言葉は、じつは、明治時代になって生まれた言葉だそうです。へえーって感じしませんか?

 その出所は英語の"nature"だそうです。

 英語の「自然"nature"」は「人間"human beings"」に対立する概念で

日本人は明治時代より前には、この言葉を知らなかったということですよ~・・・

まあ、文字が存在しなかった(?)訳ですね・・・

そして、言葉を知らなかったということは、そうした意識をも、なかったということです(^0^)

 つまり、人間もまた、馬や牛がそうであるように、自然界の一部だった(^0^)のですよ・・・素晴らしいことですよね・・・

  人間そのものが生物の一員であり、そして死ねば、ときには他の生物に生まれ変わることもあると考えられたのでしょう・・・

 つまり昔の日本人にとって、すべてが自然なわけで、「自然」という言葉も生まれようがないです。

 

 言葉は「差異」や「対立」の中から生まれますが、「全体」という言葉は「部分」の裏返しのごとくで、「自然」もまた「人間」という概念と対になって生み出されたわけですよ(^0^)

 それだけ日本は、自然に恵まれた風土だったといえそうな感じがしました・・・

 今の私等は、「自然」という言葉を知っていますが、「自然」という言葉を持たなかった少し前までの日本人は、こうした認識のスキームからは自由であり、ずいぶん違ったふうに世界を眺めていたのでしょうね・・・

タイムマシーンがあれば戻ってみたいものですが・・・

 日本人は西洋生まれの「自然」という言葉を使い出して、まだ日があさい・・・たかだか100年ということですが、人間をも自然の一部と見る認識や感覚がうもれている・・・そして、何かの折に、その感性がよみがえってくる。

 私が小学生の頃、道を歩いていると、全く意識はしていなのに、田んぼの小川にはタニシもいたし、風のそよぎや、小鳥の鳴き声、草花の匂いを自然に嗅いでいた。特に意識はしていなかった。

 あのとき、私に何が起こっているのか、説明はむつかしいですが、ただ、「自然と人間」といった現代人の認識の病には罹っていなかったと思われます。意識しない自由という「自然」だったのだろうと今になって思うものです。

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2009年1月 5日 (月)

ごあいさつ

長らくご無沙汰いたしまして、失礼しました。

昨年11月に突然の眩暈と吐き気に襲われて、入院と自宅リハビリに日を過ごしました。病名は「良性頭部変位眩暈症」というもので、耳の三半規管内部の耳石が変調をきたしたとのことです。つまり、三次元空間で位置とバランスを取るためのセンサーが傷んだために、立つこと座ることもできず、芋虫のように転がるだけという症状でした。

 幸いすこしづつ回復して、現在は杖なしで歩けるようになり、車の運転も近距離はできるようになりました。ただ、いつもフワフワとした浮遊感があって、ちょうど軽く一杯飲んだあとのような感じですので、歩行も運転も十分に注意しています。それなら飲む必要もないかと思うのですが、やはりめまいと酔いとは違い、それはそれで峻厳なる区別が必要です。読んだり書いたりという頭脳を使う作業も困難を感じますので、仕事に復帰しても当分はすこしづつやる、ならし運転になると思います。

 長い静養期間はもっぱらTVを見ていましたが、おかげで普段は見ないような番組を知る機会にも恵まれ、つくづく世の中は広い、自分の知らない世界がいかに多いことかという思いを持ちました。料理番組などを見てさえ、味覚の世界と料理の奥深さを感じて、味を見分けるということだけを取っても、無限にひろく深い世界があるものだと思いました。その意味では退屈など無縁でこれから知りたい事ややってみたい事がゴマンとあるのだと思った次第です。

 自宅に居るあいだにアメリカ発の不況の影響は広がり、世界的な混乱を見せてきましたが、昔見た光景、つまり既視感を常に感じていました。15世紀ころからのヨーロッパで繰り返されたバブルの歴史が、今また行われているという感覚です。グリーンスパンが100年に1度という言葉を出してから、皆が引用していますが、決してそうではなく、人類が周期的に経験してきた好況と不況のサイクルの一つで、その収束のプロセスも歴史に明らかだと思っています。

 体が不自由になると感覚が鋭くなる作用も経験しました。

普段は頭で考えて理解するのですが、今回は感覚、さらにいえば「カン」でつかめたような気がします。

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