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2009年4月28日 (火)

豚ウイルス

 以前、「銃、病原菌、鉄」という妙なタイトルの本を読んだことがあった。その説で納得したのは、わずか数百人のスペイン兵が数百万のインカ帝国を滅ぼした主因として、病原菌を上げていたことだった。

 ヨーロッパでは、ヒトと家畜が同居する長い生活形態の中で、家畜と人のあいだをいったりきたりする病原菌がいくらでもあった。この菌類は、新しい世界、つまり、ヨーロッパ以外の人間に対して、猛威を振るった。片方は生まれながらに免疫を持ち、一方は無垢というわけである。スペイン兵が進軍すると、インカ兵は恐れおののいて逃げたのだから、戦争にもならない。

そういえば、

 結核、梅毒、チフスなどの大流行が世界の歴史を変えた事実もある。

 今、豚ウイルスを持った敵兵が日本に来寇したら、戦う前に誰でも逃げてしまうだろう。奇跡のような戦勝には、武力で勝負が決まるということ以外に、不思議な現象があるのかもしれない。

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2009年4月24日 (金)

ひま

いよいよ我が社も仕事が無くなってきた。

ざっと見て普段の3割くらいで、7割減った感じである。工場内は閑散として静まり返っている。従業員たちは少ない仕事を引き延ばすのに苦労しているが、ワークシェアよりはましだろう。とにかく会社にいれば給料が貰えるのだから。

毎年今の時期は激減するのが、この業界の常で、その代わり夏からは滅茶苦茶忙しくなるというパターンだ。しかし、今年は違うのじゃないかと言う人々がいる。つまり、リーマンショックの影響で、この不況が深まれば、シーズンに入っても仕事がない!という心配だ。

毎日何をしているかと言うと、会議が多くなる。暇なせいだろう。会議も前向きのものなら歓迎だが、会議のための会議に堕するとろくなことにならない。

   会して議せず 議して決せず 決して行わず

時間だけを浪費するばかりでなく、惰性という毒が頭にも体にも回ってくるのだ。仕事がないことは、実はそんなに怖くはない。しかし、この中毒は本当に恐ろしい。

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2009年4月21日 (火)

非常の功

 

 ある会社は、長期にわたって業績が低下して、ついに債務超過に陥った。それまでは何十年も前に取得した土地を切り売りしてしのいできた。地価の上昇は天文学的なもので、一坪何円か何十円で購入したものが、場所によっては百万円単位になっていたのである。したがって、何年かに一回土地を売ると、それまでに累積した赤字を埋めることができたのである。

 だが、いよいよ売るべき土地もなくなってきた時、長い間に自助の精神を失ってしまった会社は、途方にくれたまま漂流し始めた。長期戦略を立てる者も、強力に引っ張って行くリーダーも育たぬままに、責任回避の事なかれ主義が蔓延した。そして当事者能力を欠いた組織は、推進力を持たぬグライダーのように高度を下げて行った。

 非常時には非常時の対応がなければならない。しかし、実際には呆然として見ているだけという現象が何と多いことか。組織というものが、如何に無力であるかを思わざるを得ない。

 「国難にして忠臣あり、家貧しくして孝子出ず」と言うが、忠臣も孝子もなかなか出てこないうちに、ダメになってしまう。

 思うに、非常時に対処できる人というものは、もともと平時にも戦時にも能力を発揮できる人物であって、平時にぼんやりしている人が、まさかの時だけバリバリ仕事をするというものではあるまい。普段から、いろいろな事を考えていて、鍛えているからこそ、いざという時に役に立つのである。この間の事情は、ちょうどダム湖が干上がると、それまで水面下にあった木や岩が、にわかに現れてくるようなものだろう。その会社は水面下に何もなかったことになる。

 そのような人物が活躍する時には、周りの人達は必ずと言って良いほど従順についてゆくものである。何しろ道に迷ったパーティがうろうろしているようなものだから、決然と方向を示す指導者は絶対的である。こうして、目覚ましい改革が行われるから、事態は劇的に改善されてゆく。古語にいわく

「非常の人あり、しかる後、非常の事あり。非常の事あり、然る後、非常の功あり」

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2009年4月17日 (金)

管理してます

管理しています     214

 年度末が迫ると、恒例の来期の価格交渉が行われる。

 発注側は少しでも安くさせようと、あの手この手で攻めるし、こちらはそれに反論して防衛に神経をすり減らす。世の中は価格競争が激しいから、年々値段が下がるのはやむを得ないのだが、困るのは一方的に値引きを押しつけられることだ。それも、ただ「安く」というだけで話し合いも成立せず、ほとほと難渋する。

商社が発注者の場合では製造の中身までは踏み込んでこないから、最初に値段ありきで、結局受けるか受けないかの二つに一つとなりがちである。これは「市場が決める価格」と納得せざるを得ない面があるが、自分も工場を運営しているメーカーがこうした数字主義でやってくると、この人達は本気でこんな値段を示しているのか?もしかしたら冗談かな?と思ったりする。それほど安い価格が珍しくないのである。

 そんな中で、メーカーの「管理」という立場には理解を超えることがある。

 かつて、大手金属製品メーカーで外注管理を何十年もやってきたという人が入社したことがあった。経歴は立派だし、経験年数も申し分ない、さぞかし力を発揮してくれるかと思ったら、何も知らないのである。材料の知識も外注工場の機械もチンプンカンプンで、穴を開けるプレスのトン数がいくら必要かも考えた事もなかったという。あまりの無知に驚いて「何をやってきたのか」と聞くと「管理」をやってきたと答えた。これで「管理」ができるとは、さすがに大企業というのは偉いものだと変に感動したことがあった。

 製造業の世界に身をおいて、長年やってきたあげくが技能として「管理」しかないとなると、よほど何もしなかったとしか思えない。「管理」するためには、その対象を理解しなければならない。理解するためには勉強しなければならない。常に問題意識を絶やさず、折りに触れて見たり聞いたりしなければ、管理などできないはずだと思う。「管理しています」とは往々にして「勉強してません」の意味だとすると、相手の立場などは無視して、良心のかけらもない価格を強要することしかできない。

 こういう人が価格を決めるのは、我々にとっては悲劇的な冗談である。

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2009年4月14日 (火)

雨の桜

今日は久しぶりの雨、降るか降らぬかという程度の雨で、歩いていても濡れないが、いつの間にか道路がしっとりとしている。今年の桜もこの雨で終わりを告げる。見上げれば緑濃い葉がぐんぐんと伸びて、散り残っている花びらを隠そうとしている。

ほんの数日前、瀬戸川の堤を2時間かけて歩いたのが、今年の花見となった。堤防の両側はほぼ満開の桜並木で、花のトンネルを通ると、薄紅いろの光が降ってきて、まさに春風駘蕩、一杯やりたくなった。

「桜花 何が不足で 散り急ぐ」  一茶

「散る桜 残る桜も 散る桜」   良寛

雪国の人の感性は、やはり人間の生きる諸相を映しているようで、陰影が濃い。これに比べると大阪の蕪村は明るい。

「願わくば 花の下にて 我死なむ その如月の 望月のころ」  西行

と一気に詠んだ賛歌をからかって

「西行が 死にそこのうて あわせかな」 蕪村

とやった。

また、野宗氏の紹介で知ったが、次のような絵画的なものもあるそうだ。

「行く春や 白き花見ゆ 垣の隙」 蕪村

最後に、私の愚作を一つ

「もの憂きは 愚将にはべり 見る桜」

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2009年4月10日 (金)

フィンランド映画

昨夜はフィンランド映画を、立て続けに2本見てしまった。

2002年にカンヌで優秀賞をもらったものが最初に見た奴で、次のは同工異曲、あらすじも似たり寄ったりだった。何でもこの監督の3部作として有名な映画らしい。

フィンランドの「落ちこぼれ」というか、翻訳では「負け犬」とされていた主人公は、警備員であったり、溶接工であったりするのだが、興味深かったのは解雇の条件が大変労働者に厳しく、いとも簡単にクビにされて、その日から路頭に迷う姿だった。アメリカ映画を見ているのかと錯覚するような社会背景は、主人公を黒人労働者に置き換えても違和感を感じないような、差別と貧困をうかがわせた。

最近北欧の高度に発達した社会福祉が紹介されて、先般も同友会のゼミでもとりあげたばかりである。福祉国家が真の民主主義を育てるという北欧型民主主義の優れたモデルがフィンランドやスエーデンだった。これはアメリカの民主主義と違う価値観を提供していた。

ところが、この映画(1本は2006年の制作)に見えている、フィンランド民主主義はずいぶん暗い過酷な社会を写し出しているのだ。福祉の充実という点では、主人公が「宿泊所」なる安宿風の施設で暮らす(たぶん公的な施設なのだろう)場面や、いろんな場面で出くわすボスの多くが女性(これが実にたくましくもふてぶてしいのだが)だったりするところを見ると、本に紹介されている、女性の進出とか福祉のセーフティネットなるものも、確かに存在すると思った。しかし、学歴も技術もなさそうな主人公のような社会的弱者に対する風の冷たさが、これでもかというように表現されてくると、やはり、考えてしまう。

おかしかったのは、主人公が旅行中にとる食事に「すし」と「酒」が出てくる場面だった。日露戦争でロシアを負かした日本は、今でもフィンランドでは尊敬されているらしい。BGMで使われている曲は、ほとんどがロシア音楽、ここでもやっかいで強大な隣人と暮らさざるを得ないフォンランドの側面を見ることができる。

出演者には、いわゆる美男美女はいない。普通のおっさんとおばさんだけである。リアリズムの良さとつまらなさが同居していた。

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2009年4月 7日 (火)

智謀湧くが如し

 斬新な発想で、新しいアイディアを次々に出すことができる人がいるものだ。

一つのテーマを出すと、あれよあれよと言う間に多角的に、表から裏から考察し、東西の事例を引っ張り出して比較検討する。そのスピードと多彩なことは驚くばかりである。

 ある時私は訊ねてみた。どうしてそう次々と考えが出てくるのかと。

すると、答えは知識と情報の量ではないかというものだった。今風に言えばデーターベースの問題、蓄積された知識、経験、情報の膨大な量とその整理の在り方だった。特に整理のしかたがその人独特のものでこれが言ってみればノウハウだった。そうでなければ、知識は知識としてのみ存在して、いくら大量でも使いきれないはずだ。

 一例をあげると、今を盛りの桜について話したときのこと、桜を取り上げる記事で面白いものは何かということになった。普通は桜の名所、とか桜と日本人、桜を詠った詩歌などが切り口になるのだが、その人は意表をついて、「思いもかけない桜とは何か」と問題設定をする。すると、「意外な桜」という切り口が出てくる。そこから「海辺の桜」「社会主義の桜」「雪の中の桜」「エンジンと桜」「虐殺の桜」などといった言葉が出てくる。こうなると1時間くらいはあっという間に過ぎてしまう。整理されたデーターベースというのは楽しいものでもある。

 いつでも引き出せる。いつでも覗ける。いつでも組み立てられる。どんなにでも創造できる。こういう状況が「湧くが如し」となって見えてくるのだろう。

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2009年4月 3日 (金)

絶対貧困

 ユニークな題名の本を買って読んでみた。

著者は自らアフリカやアジアのアンタッチャブルとも言うべき路上生活に身を投じて取材した。そのレポートである。1日1ドルで食べている人々が何億といること、このバーをを「2ドル以下」に引き上げると、実に世界の人口の半分近くになるという指摘に改めて考えさせられた。

絶対貧困者の食、医、性、闘など、体験したものでなければ書けないだろうと思う具体性をもって迫る。映画「どん底」や今日の日本のスラムの記事などと比較しても、ここまで悲惨な情景はない。まるで、動物のように生まれて動物のように死んでゆく実態を紹介している。

そのうちの一つにこういうくだりがあった。

「絶対貧困者は火を通したものでなければ食べない」なぜならば、もともと人が捨てた食べ物を食べるので、生鮮食品などもどう傷んでいるかわからないから。そして食べれる時に食べれるものを食べるしかない。従って高カロリーのビタミン不足になるのだと。続いてチキンの起源を説いている。当時のアメリカでは白人は鳥の足は食べなかったそうだ。そこで貧しい黒人たちは鳥の足を拾ってフライにして食べたのだと。これを続けると肥満は避けられない。

 今日のアメリカで肥満が極端に恐れられる背景に思い至った。

肥満=貧乏な食生活=無知と無節制、つまり下層階級の人、という連想が湧くらしい。

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