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2009年6月29日 (月)

沖縄紀行

4 スクラップ

軍労働者になるまでの時期については、僅かしか語らなかった。

「親父がスクラップの事故で死んでしまった」と言って暫くは沈黙していた。

彼が小学校の頃、父親は鉄スクラップ拾いの仕事をしていた。と言っても専門の業者というわけではない。当時は沖縄全土がスクラップの収拾に狂奔していた。沖縄戦が残した膨大な鉄が戦後の復興の始まりとなったのである。

戦車、銃器、砲弾、車両などが至るところに散乱し、海には船舶が鉄の塊となって沈んでいた。廃鉄の回収は1955年前後がピークで、沖縄の輸出の6割がスクラップという年さえあった。使用された爆弾20万T(沖縄不発弾等対策協議会)の数字が正しければ、この爆弾がそれまでの輸出の大宗だったサトウキビを抜き去って、スクラップを第1の産業にしたのである。

スクラップで財を成して行った者もあったが、不運な人は地雷や不発弾に当って命を落したり、身体障害者になった。かれの父親は爆発には遭わなかったが、スクラップの山が突然崩れてきて、その下敷きになった。腹を裂かれた父は一晩中呻いた後、翌朝未明に死んだ。働き手を失い3人の子供を抱えて悲嘆にくれる母親を見て、彼はアルバイトに精を出すようになった。やはりスクラップだが、鉄はやりたくなかったので、銅専門にやった。スエズ動乱で一大ブームが来ていて銅は高値で売れた。薬莢は「宝みたいなもの」で、電線すら盗ったという。感電しなかったかと聞くと、穏やかに笑って答えなかった。倉庫とか工場から頂戴したのかも知れない。主な仕事は大人達がやるが、見張り役に彼のような小学生が適任だった。

ある晩の事、彼は乏しい月明かりを頼りに、石垣を攀じて見張りに立とうとした。

足が何か柔らかいものに触れたと感じた瞬間、「ハブだ!」と直感して転げ落ちた。案の定、暗い中をうごめくものは危険な毒蛇だった。彼は恐怖のあまり逃げ出して、わあわあと泣き出してしまった。大人たちはびっくりして「どうした!」と駆け寄ってきたが、事の顛末を聞いたリーダーはなかなかの者で、こう言う日は止めた方が良いと言って全員を家に帰した。果たせるかな、侵入した別のグループが、手ぐすね引いて張り込んでいた警察に挙げられた。

彼はその日を境にスクラップから足を洗った。

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2009年6月25日 (木)

沖縄紀行

3 基地の活劇

キャンプで働いている人たちは軍労と呼ばれて、就職の機会がろくに無い沖縄では特別の立場だった。しかし、その反面、アメリカ人に追い使われる立場は危険と屈辱との背中合わせだった。基地内でのある日、彼は洗濯場に居た少女が、3人の米兵に連れ去られる場面に遭遇した。物陰で乱暴されそうになって震えている姿を見て、思わず大声で喚いた。大男たちに向かって吠え立てる姿は、まるで猟犬が自分よりも大きな獲物と距離を保ちつつ吼え回るようだったが、威嚇されると逃げながら叫び、また近寄って「やめろ!」と怒鳴っているうちに、騒ぎを聞きつけた他の連中が寄ってくると、3人は忌々しそうに離れていった。幸い少女は着衣を引きちぎられただけで怪我はなかった。それ以来、彼とその少女は出会うと言葉を交わすようになり、基地の中で恋が生まれ2人は結婚した。

反米、基地闘争、復帰などの政治的な言葉には反応しない彼が、ある事件を語ってくれた。

その年、米兵2人が中学に入ったばかりの女の子を強姦すると言う、痛ましい事件が起こった。普段は穏やかな沖縄の人たちだが、此の時は憤激し、毎日1万を超えるデモ隊がゲートにせまった。沖縄のデモは人口比で見ると分かりやすい。当時70万強の人口比を仮に東京に当てはめると、25万から30万人の動員に匹敵する。60年安保の史上最大と言われた国会デモが17万であったから、如何に激しかったかと言うことである。だが、やはり、アメリカ側は犯人を匿った。ころあいを見計らって、どこかへ移してしまうだろうと噂された。

このままで済ませるものか!と言う気分は軍労の全てが共有していたが、或る者が一計を案じた。

厳重に謹慎させられている2人も、やがてはこっそりと息抜きに町へ出るだろうが、そのチャンスを捕まえて復讐しようと言うのだった。ただ、相手に傷害を負わせるとなると事は面倒になるから、傷をつけずにやっつけなければならない。そこで立案された方法は、足腰立たなくなるまで走り回らせて、懲らしめる事だった。

まず全員が2人の動静を逐一見張るようにした。基地を出るとすぐに伝令が走った。どのバーへ入ったかもたちまちキャッチして、店の女達に頼み込んで、たらし込み、グデングデンに酔わせる手はずを整えた。バーテンや他の店員達は、できるだけ客をいれないようにガードを固めた。やたらにもてた2人は飲まされて急ピッチで出来上がってきた。酔眼朦朧となったあたりで、合図を受けた挑発役が店に入った。挑発役は紙爆弾を用意していた。これは、2人を確実におびき寄せる為に、基地内新聞の編集局員が作ったのもであった。確実に怒らせる手はないか、と言う相談を受けると彼は、傍らのメモ用紙にさらさらと何かを書いて渡しながら、「やつらに見せたらすぐ逃げろ」と付け加えた。編集局員はミシガン大留学帰りの秀才で、向こうのスラングにも明るかったのである。挑発役はその紙を2人の米兵に渡した。たちまち米兵達の形相が変わった。

その紙切れには、こう書いてあった

「子供をやりやがって、糞野郎!大人の女には相手にして貰らえねえのか!」

彼らは怒り狂って立ち上がるやいなや、挑発役に突進してきた。と言ってもアルコールが回りこんでいて、つんのめりながらであった。挑発役はすぐに外へ出て、2人が近づくと逃げ、距離があくと罵声をあびせ続けた。振り返りながら、露地から露地へと引き回し、角を曲がれば、代役が代わって逃げた。代走者はあらかじめ同じ服装で待機していたから、暗い中では米兵には分からなかった。同じ相手と思って追い続けたが、幾ら若くて訓練している兵と言っても、しこたま飲まされた後である。たちまち息があがって足がもつれ始めた。ここで休ませてはならない。嵩にかかって、ののしったり、蹴る真似をしたり、性的なしぐさで愚弄したりして、さんざんにもてあそんだ。もう英語でもない、日本語でもない、沖縄言葉丸出しである。くそ!と起き上がれば囃し立てて又走らせる。

とうとう、ドスンと倒れて一歩も動けなくなった。恐ろしいほどゼイゼイと喘いで、目は空ろ、顔は心なしか悲しげでさえあった。

ここで、手はず通りにバケツを準備していた連中が、ひっくり返っている2人に中の汚物を頭からぶちまけたのである。中身は豚と山羊の内臓に糞尿までまぜたものだった。臓物を、手を振ってよけようとする拍子に、いつの間にか抜いていたナイフが光って見えた。

翌日、基地内はアメリカ人の間でさえ、この話でもちきりだった。軍人が如何に支配者とはいえ、子供を強姦した2人に対しては、将兵は軽蔑と反感をもっていたのである。2人は仲間の米兵からも「臭い、近寄るな!」と追いまくられて、青菜に塩としょげていた。

組合史にかかれない軍労組の戦果であるが、それ以来、スティンク(臭い)と言う言葉は「痛快」を意味して、仲間が集まって一杯やるときには、盃を挙げて全員が「スティンク!」と叫んで乾杯した。

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2009年6月24日 (水)

沖縄紀行

2 朝酒もさめて

ふと気がつくと、あの朝酒氏が横に来ていた。

「どちらからですか?」と始まり、間を置かず「仕事ですか?」とたたみこんできた。曖昧に返事を濁す暇もないタイミングで、なかなか鋭い。

私はGパンにポロシャツという姿だが、彼には何の仕事か判断がつきにくいようだ。定年退職してカメラ片手に旅行という場合は、ポケットがやたらに沢山ある上着が決まり相場であるが、私のは、物をしまうポケットも付いていない。当座の路銀と常備薬以外は何も持たず、いつも肌身離さない持ち物は、冷房対策の上着だけである。

あまり質問されてはかなわないと思い、逆にこちらから彼の事を聞くようにしたのだが、私のあいずちや合いの手が、トンチンカンでなく、反問や質問の具合からして、彼は丁度良い聞き手を得たと感じたようでもあった。

今から思うと、これが自噴泉の如く、湧き出て止まらない語りを引き出す事になってしまったのである。

私の美質は、人の話を最後まで良く聞く事だが、今回も長い聞き役を務める事になりそうだった。しかし、考えようによっては、気候は良いし波も穏やかで、海風は柔らかく肌に心地良く、落ち着いて話を聞くのも悪くないなと思った。私はさりげなく風上に回りこんで長期戦に備えた。

与論まであと3時間、1.5mほどの穏やかな波の上を、飛び魚がしきりに飛んでいた。

このあたり、今日は台風も去って穏やかだが、時には大型の台風に直撃されて荒れに荒れる。琉球弧は天気図でもおなじみの進入路である。離島で暴風雨に晒される心細さは大変なものでしょうね、と会話を続けた。

待ってました、とばかり勢い込んで話し出したのは、彼が少年時代に遭遇した台風で、ほとんどの家が屋根を吹き飛ばされ、壁すらも破壊された。その中で奇跡的だったのは、犠牲者がゼロだった事だ。人々がどう避難したかと言うと、何と便所の中に隠れて嵐を避けたと言う。壁と壁が近いので家中で一番堅牢な部屋なのである。どこの家でも長年の経験から、いよいよ危ないと見て取ると、家族は便所の中へ逃げ込んで助かった。だが、家も家畜も農作物もやられて再起を果たすのは辛い事だった。営々と作っては破壊され、修復しては又ダメージを受けて、島は豊かになれない。普段は水が無くて苦労しているが、水が多すぎるのもまた災いである。

幸い現在は、海水の淡水化装置の、かなり大型のものが稼動していて、生活用水には困らなくなった。農業用水は生活排水をある程度浄化してから畑に再利用するので、だいたいどこの島でも間に合っているらしい。こんな話をちょっと聞いただけでも、離島の農業生産性が如何に低く、コスト高にならざるを得ないかが分かる。水に関する装置類の導入コストと、そのランニングコストもきっとかなりの額だろう。国や県がさまざまな助成金をつけてやっと維持しているのが現状だろうと思った。

「それで、サトウキビで農業が成り立つのですか?」と無遠慮を承知で聞いてみた。

パイナップル、サトウキビなどの伝統的産品は国際競争力に劣り、今はもう主役ではない。代わって菊や野菜が稼ぎ頭になっている。冷蔵コンテナの登場や航空貨物便の普及で、内地との気温と日照の差を逆手に取った作物で潤っているそうだ。内地ではビニールハウスの横で重油を焚いたり、夜間の電気照明を絶やさずにして栽培するものが、沖縄では露地で作れるのである。菊は墓参りが多い鹿児島へ出荷していると思ったら、東京の

大田市

場だと聞いてびっくりした。鹿児島では排斥されて、已む無く他を当っているうちに東京へたどり着いたのが幸いしたと言う。有利な供給条件なら価格は強気でいける。「では菊御殿が建っているでしょう」と言うと、それには耳も貸さず

「奄美ではハブ1匹が5000円で売れる」と話を逸らした。ハブ取りを職業にしている人を知っていて、子供を3人も大学へやったと、羨ましそうな口ぶりである。

「あなたもハブを獲らないのか」と言うと、怖気を振るって「あれだけはやらない」と言った。その理由はこのあと分かってくるのだが、大の苦手らしい。

その代わり、ハブ以外はありとあらゆる職業を経験した。

畑仕事は一通りこなすし、大工の腕も一寸した小屋なら一人で建てる。左官の鏝も器用に使い、料理も女衆に負けない。頼まれれば舟に乗って潜りもするし釣りもそこそこだ。「仕事は選んでいられなかった」と笑うが、金の為に懸命だったのである。福沢諭吉も今でこそ1万円札に納まっているが、みずから自伝に書いているように、若いころは生活のために雑技を身につけざるを得なかった。孔子でさえ「鄙事に多能だった」と回想している。かく言う私も鄙事の腕をたよりにして、どうやら食えてきたのだ。

朝酒氏の語るところによれば、彼は去年までタクシーの運転手をやっていた。一時は結構良い稼ぎがあったが、最近はレンタカーが普及して、大手旅行会社は、ホテル宿泊費と航空券にレンタカーまでつけて安いパックを売り出したので、本土からの観光客はタクシーを使わなくなった。1日の水揚げが1万円に達しないことが多く、きつい仕事の割には報酬が少なくて困っていた。そこへ来てリストラが行われ、高齢の彼は最初に外された。沖縄の物価がいくら安いと言っても、タクシーが1万円では成り立たない。零細のタクシー会社であれば、商売替えを考えざるを得ないだろう。彼は暫くの間は何とか食べていたが、次第に窮して来た。しかし再就職は更に難しく、今回も職探しが不本意に終わっての帰りだった。「こんな年では無理だろうなあ」と笑う表情が、場違いな程に明るくて、私は、この人は本当に嘆いているのだろうか、それとも実際は困っていないのだろうかと迷った。

家族のことに話が及ぶと、表情を輝かせた。次男は大学を出て県庁勤めだと言う。沖縄は公務員に対する憧れが特別に強く、県職ともなれば超エリートである。(実際に国家公務員1種に合格していながら、沖縄県の試験に落ちた事を残念がった学生がいる程だ。両方受かったら県へ行くつもりだったとか)。高卒の長男は弟を大学に行かせる為に随分頑張った。買いたいものも買わず、食べたいものも食べず自分を抑えて生きてきたので、おのずから厳しい性格に育った。だから親父が仕事もせずにブラブラしていると、どうしても気になって仕方が無いようだ。失業は本人のせいではないことも十分理解はしているが、やはりついつい咎めるような口調になるらしい。

朝酒氏は「俺だって遊んでいたくはない」とプライドも見せるが、孫がそんな空気を察してか、ちかごろはおじいちゃんを以前ほど尊敬しなくなった。これが何よりこたえる。彼は居辛くなっては職探しに出るようになった。その長男をあの時代に学校を出してやったのは、他でもない朝酒氏の昼夜を問わない働きのお陰なのだが。

「子供と言うものは成人するころには、たいてい自分1人で大きくなったように思うものだ。多分世界中どこも同じだろう」と言うと、わが意を得たり、とばかりビール缶を大きく振って賛成した。私はその拍子に中身がこぼれはしないかとヒヤヒヤした。酒がこぼれるのを見ると、それが他人の物でも胸が痛むのである。幸い長男の嫁は戦後の苦しい時代を乗り越えてきたと言う思いがあって、陰に回って時々そっと小使いを渡してくれるらしい。私は500mlのビール缶の財源はそれだろうと見当をつけた。余計なお世話だが。

朝酒氏はタクシーに乗る前は米軍キャンプで働いていた。運がよかったと言う以上に、良い親戚が居てくれたのである。先にキャンプで働いていた叔父が人員募集の知らせを持ってきてくれたので、早い時期に定職に就けた。いろんな雑用をやっているうちに、もともと根は真面目だったのだろう、一生懸命やるから覚えは早く、アメリカの軍人やその家族達に可愛がられた。そこでは今までに身に着けた雑多な技能が随分役に立った。水道管の故障から、ドアの蝶番交換、庭の手入れ、子守、荷運び、買い物の手伝いと動き回って重宝がられた。

自動車の運転を覚えたのも、或る少尉が彼に運転の手ほどきをしてくれたからである。運転免許が珍しい頃、いち早く運転を覚えたのはよかった。

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2009年6月23日 (火)

6月23日沖縄の戦後

 今日6月23日は沖縄戦の終了した日である。この日をもって組織的戦闘がなくなった。

戦争が終わってまたすべてが元通りになるかというと、それは不可能で、戦争によってもたらされた惨禍は、次世代、次々世代にわたって影響をおよぼしつづけるのである。

以前沖縄旅行の際に知り合ったひとの話を紹介しておきたい。

--沖縄紀行

1 フェリーターミナル

 

 暗いホテルの玄関から乗ったタクシーが、車の通りもまばらな路を走り出して、まもなく夜が明け始めた。目覚めてから血液が体に漲るような活動の予感が、建物のたたずまいや、すれ違う車両、散歩している人の長く伸びた影などの、静と動の対比の中で、静かに快い興奮を呼び起こした。 

  陸も海も太陽に温められる前で、安定した温度バランスから抜け出していない。島風が起こるにはまだ間があった。

 乗船ターミナルは外が明るくなっているにもかかわらず、建物全体はなお暗く、高い天井からは蛍光灯が弱い光を投げかけていた。そこだけ眩しい切符売り場へ向かうと先客がいた。3名である。若夫婦らしい2人は小型犬を連れている。手軽な荷物にサンダル履き、シャツには石垣島の文字がプリントしてある。よく焼けた肌や首根を見ると、たっぷりとダイビングでもしてきたと知れる。お土産や荷物は、車ごと積み込んで持って帰るのだろう、いかにも旅なれた雰囲気であった。

 いま一人の背中は、丸首のシャツから出た短い髪は白くなって、突っかけを履いて手荷物は何も無い。首はみっちりと焼けて皴の奥まで地黒、浜辺でいっとき焼いた程度の色ではなく、土地の人である。

 切符売り場のガラス戸が開いたが、若夫婦は既に予約で決めてあるのだろう、ベンチに座ったままであった。当日券を買うのは彼と私のみだった。

前の男がなにやら話していたと思ったら、突然 「なめとんのか!」と大声で叫んだ。何事かと驚いて見ると、男はビール缶の500mlを握りながら、わけの分からない事を言っていた。凍りついた表情の職員が、すぐに気を取り直して冷静な説明を始めると、二言三言のやり取りで直ぐに静かになった。 言葉の抑揚から察すると、啖呵の時だけは関西風にやったが後が続かず、沖縄弁に戻ってしまうのを持て余しているようだった。あっさり引き下がった男は、カウンターを離れると、後ろに並んでいた私に向かって「どうもすいません。お先にすいません」と、やたらに丁寧にペコペコ頭を下げ、長椅子の夫婦にまで愛想笑いを振りまいた。この時間に酔っ払っているのだから、多分その辺の椅子で夜を明かしたのだろう。強い酒の匂いと、年季の入った卑屈さに辟易する思いを持った私は、お近づきにならないようにと用心した。

 まもなく乗客たちが集まりだして、ターミナルは話し声がヤガヤと響くようになり、売店のおばさん達も、眠そうな顔をしまい込んで気合を入れてきた。

 あの男、「朝酒氏」はいつの間にか、土地の人達の輪に歩み寄っては何かと言葉を交わしている。しかし、顔見知りというほどでもなさそうである。待ち時間の暇にまかせて何やかやおしゃべりしていると言った感じである。彼は本来の社交家ではなく、単に人恋しいように見えた。

 客船でもないし遠洋航海でもないので、見送る人もほとんど居ない。ほんの数名の見送り人も、あっさりと手をふって姿を消してしまった。いつも通りの時間に、いつものようにすべてが行われるのである。 大きな船が岸壁を離れてゆくさまは、いつ見てもドラマチックであるが、ここでは私のように、たまに乗る者だけが珍しさに興奮していて、他の人々にとっては日常生活のひとこまに過ぎない。

 港を出れば直ぐに外洋である。左手は東シナ海、はるか彼方には中国があり、右手沖縄本島の向こう側は太平洋である。手すりに凭れていると、若夫婦が犬を歩かせて来るのに出会った。夫婦ともTシャツに短パン、男性の引き締まった筋肉も、女性のスラリとした肢体も伸びやかで屈託が無い。不自由をあまり経験しない育ちであろう、周りへの気配りは適度で自然である。少し言葉を交わしてから、気になって仕方が無い事を質問してみた。「ワンチャンはどこで寝るんですか」と。すると、船には専用の籠があって、デッキの一部がペット用に確保されていると言った。ペットを連れて乗船してくる客がいつも居るからだろう、たいしたものだと、妙なところに感心して、改めてリゾートとしての沖縄が、時間をかけて時代の要求に応じてきたことを思った。

 何日かの連続した休暇をとって、南海の島で遊ぶという生活スタイルは、今やハワイよりも沖縄が主流らしい。「ハワイはやはり遠いし、グアムもねえ・・」とやや冷めた口調だった。さんご礁の海を堪能して帰ってきたこの夫婦は「竹富も良かった。また行きたい」と言って、お茶のボトルを振りながら去っていった。ダックスフントは、カリカリと甲板に音を立てながら、短い足で後を追って行った。急ぎ旅なら飛行機だが、平日に車を持ち込んで船旅をしている夫婦は何の仕事かと考えた。I T関係の長者か、或いは、親のそれ程忙しくない商売でも継いでいるのか、察するに普通の勤め人ではないようだった。

 だいたい、肌を惜しげなく露出させるのは、豊かさと連動した生活のスタイルと見て間違いない。隠すという意識は、恥ずかしいという思いが根底にあることからすれば、この若夫婦はおよそ隠すという意識から遠い。自分の容貌や肉体、生活スタイルからペットまで、何一つ隠す必要がないようである。見せられない肌、連れて歩きたくない犬、隠したい生活の実態などとは無縁であろう。このような豊かさと自信に裏打ちされた人々が選ぶリゾートが、今や沖縄となったのである。沖縄は貧困のイメージから、楽園のイメージに変身した。

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2009年6月22日 (月)

工業的豊作貧乏

 パソコンを買い換えた。広告を見ると、プリンターとセットでもパソコン本体価格から2割引きだったので、それに決めた。本体価格を2割下げてもプリンターが付くなどという条件は、あまりに良すぎて半信半疑だったが、持ち帰ってプリンターを使ってみて、これがちゃんとした製品であることがわかった。こうなるとプリンターは実質的には「おまけ」である。イチゴを3パック買うと細ネギが1把付いてくるような感覚で、こちらは儲かったような気分になるが、こういう製品を作っている会社は大変だなあと思う。プリンターを製造している会社は、作っても作っても儲からないだろう。なにしろ限りなくタダに近い物だから、いくらコストダウンをしてみても、そこから利益が上がるとは思えない。

 キャベツが豊作になると、生産コストが販売価格を上回って、農家は取り入れすらしないで、ブルドーザーで畑ごと作物をつぶす。そんなニュースが何年かに一度流される。収穫が多いことは喜ばしいことのはずだが、豊作貧乏では出来すぎると損をするのである。農作物の場合は豊作の後はたいてい不作になる、という気候変動に影響されるのだろう、しばらくすると価格は落ち着いてくる。しかし、工場で作るものは雨だろうが日照りだろうが、まったく関係なく安定した品質のものができる。しかも、キャベツと違い生産性は毎年向上する。逆にいえば生産余力は毎年増加する。工業的な豊作貧乏は毎年続くのである。

 これは製造業の罠ではないかと思えてならない。

 かつては人口の80%が農業に従事していた。今は約300万人、およそ就業者の5%である。製造業従事者は労働人口の約17%、1千万人強である。農業と同様の趨勢をたどるならば、将来は58%の従事者ですべての工業生産がまかなえるようになるのだろうか? もし500万人前後でモノ作りをやってゆけるとしたら、それ以上は余剰である。つまり、どう見ても、今の半分で片が付いてしまうのだ。

 

 農は日本の基幹と言われた。今は、日本のモノ作りの復権が叫ばれている。このように、ことさらに重要性を語ること自体が、衰退している産業の特徴でもある。退潮を食い止めるためには、農産物そのものから、農産物加工品へと軸足を移したところに新たな発展があったように、モノ作りそのものから、作ったモノをもう一度何かに(その付加価値が何かは分からないが)、作り変えるという方向の先に、我々の未来があるのだろうと思う。2段階製造とでもいうイメージが漠然と湧いているにすぎないのだが。

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2009年6月19日 (金)

足立美術館

足立美術館はよかった。

何といってもコンセプトが明快である。

横山大観+日本庭園=展示美術品と庭園の融合というおうな構図である。

庭園は従来の日本庭園が幽遠の美とすると、湿気の感じられない構成の大胆さをもとに、白砂と芝生、木々と岩の境界がくっきりとしていて幾何学的なアンチシンメトリーの美とでもいうような、ものが感じられた。純然たる日本庭園でありながら西洋的なものを感じたわけである。

建物の独創性では、壁を四角に切り取って額縁にみたててあることだった。そこから庭園を見ると、あたかも一幅の絵のようだ。しかも春夏秋冬に応じて色彩が変化するというおまけつきである。以前北沢美術館のレストランがやはりそうだった。階段や部屋の窓が額縁になっていて、それは美しいものでした。

 庭園のメンテは凄いもので、毎朝職員が全員で掃除をしているほか、専門の庭師5名がかかりきりで世話をしていた。言い古された表現だが、「ゴミひとつ落ちていない」

しかも、庭には、雑草1本も残されていない完ぺきなメンテである。こういうところが、アメリカの庭園雑誌のランキング6年連続1位(ちなみに桂離宮が2位)とされるゆえんだろう。

庭のみどころはメンテにあるのが、ここは人工美の極と思った。

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2009年6月10日 (水)

八勝七敗

近江商人のことを調べていくと、その堅実な商売のやり方に感心する。彼らが編み出した手法と、その根底にある理念とか思想を思うと、ビジネスにおける必勝の原則らしきものが見えてくる。

それは、言うならば、八勝七敗の必勝のパターンのようだ。

「売り手よし、買い手よし、世間よし」

という教えは今日の企業の社会的責任のことであり、相対商売の鉄則をしめしている。売り手は高く売ろうとし、買い手は安く買おうとする。そこには利害の対立しかないのだが、対立を通して相互の利益の調和が成立する世界が見えてくる。論理的な帰結だけではない不思議な共益の関係がある。

ここにいたるまでには、たくさんの失敗が必要であるし、ここに至ったとしても15戦全勝とはならない。相変わらず勝ったり負けたりするのだ。しかし、この「負け」が必要なのである。逆説的にいえば、8勝七敗を上げるには、7敗しなければならないのである。もし、9勝6敗になれば、望外の成果と感謝すべきである。

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2009年6月 4日 (木)

留学生の就職ガイダンス

静岡県下22の大学専門学校に留学している学生の、就職ガイダンスの案内があった。

参加数では中国の学生が最も多いが、アジア諸国の学生である。

かつて中国の留学生を採用したことがあったが、なかなか人柄もよく、能力も高く信頼に足る人だった。かれは、子供の教育について、日本で学ぶか本国がよいかと迷ったあげく、中国で教育を受けさせる方を選んで帰国した。その後の話を聞いていると、やはり、そのほうがよかったようだ。中国の受験戦争は日本の比ではなく、小さい時から勉強に集中しないと良い大学へは行けない。日本にいて小学校から中学へと進んだ場合を想像すると、どうも今のようなレベルには届かなかったのではないかと思える。

個人としての能力の高さは、アジアの留学生は、一般的に言って同年齢の日本人学生よりも高い。加えて人生を生きる意識の明確さと国家利害や社会認識の冷徹さでは、大人と子供ほどの違いがある。人間関係の観察などはプロとアマほども差がある。もちろんアジアの学生がプロで日本の学生がアマであるが・・・

これからの日本は、彼らの力を借りないとやってゆけないようになるのだろうと思う。同世代の日本人の若い人を見ていると、個人的な好みや趣味に埋没して静かに豊かに暮らせればそれで十分と思う人が多い。それはそれでいいのだが、国家や民族の闘争である国際社会に、否応なしに巻き込まれて生きてゆく以上、若いうちから隠遁生活を目指していては将来が思いやられる。管理職になると、「大変で苦しいから、ヒラに戻してくれ」という例は1.2にとどまらない。積極的にリーダーシップを取ろうとする人は探してもいない。

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