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2009年7月29日 (水)

過去に学ぶ

邱永漢氏のブログを転載。

読書は経験に勝るとは、まったく同感するところだ。

第3428回
本を読む時間はプラスの時間です

未来を正確に把握するためには
いままで人間が築きあげてきた過去の知恵を
勉強する必要があります。
学問とか、歴史とか、文物とか、生活の手段は
人間がこれまでにどんなことをやってきたかを教えてくれます。
そういう過去の勉強をするのに一番役立つのは
読書ではないでしょうか。

いまや読書の内容はパソコンに移りつつありますが、
どんな手段によるにせよ、
過去の勉強をすることは未来に通じます。
ですから過去の知識を一通り身につけることは
どんな分野で働くにせよ、絶対に欠くことのできない作業です。
何事をやるにせよ、経験はきわめて大切なことですが、
知識は経験に優先します。
どんな経験も身体あってのことですから限りがあります。
それに比べると先人の経験や知恵は
時間をかけて積みあげられたものですから、
こちらがいくら必死になって頑張って見ても、
これで全部わかったという域には達しません。
従って研究熱心な人にはとても敵わないのです。

むろん、読書万巻、本の中に埋もれて生活している人でも、
それを活用できない人はたくさんいます。
しかし、全く本を読まないで天才的な行動のとれる人は、
少くとも私の視界の中には1人もおりません。
つまり過去の人間の知恵を無視して
未来の読める人はいないのです。
ですから本を読む人かどうかを見れば、
この人が研究心のある人かどうかがわかります。
研究心のない人で
「犬も歩けば棒にあたる」人は先ずありません。
あったとしても尊敬できる人ではありません。

ですから人を見る場合、
この人は本を読む人であるかどうかを先ず観察します。
本を読まない人で研究心のある人にあったことはありません。
いくら多忙な人でも電車に乗っている時とか寝る前には
本を手にとる時間くらいあるでしょう。
本を読む時間は人生にとってプラスになる時間です。
インテリのことを中国語では「読書人」と言います。

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2009年7月21日 (火)

6月23日

623日      217

 623日は沖縄戦が終了した記念の日である。

 当時の日本は、10万の軍と数十万の民間人とで総力を挙げてアメリカ軍を迎え撃ち、それでも2ケ月持ちこたえて力尽きた。なにしろ制空権と制海権を奪われた状態では、飛行機を飛ばせず、船を浮かべられず、只只地面を掘って陣地にもぐるしかなかった。一方的に砲撃され、いいように爆撃され、じっとしている間に犠牲者が増え続けた。最後の戦争とはいうものの、屠殺のような状況だった。

 火あぶり攻撃を受けながら、洞窟に立て篭もって頑強に抵抗し、空戦では切羽詰まってカミカゼ特攻を初めて行った。爆弾を抱えたまま敵艦に突っ込むという自爆攻撃である。特攻での米側の損害は400隻の艦船、こうした反撃の凄まじさのため沖縄戦が6月に終わっても九州攻撃に移れなかったと言われている。つまり、このペースで日本占領を果たすには、九州だけでも10万以上、日本全国なら100万以上の米兵の命が失われると計算したのである(BBC放送ドキュメンタリーによる)。

 日本本土は、空爆は徹底的に受けたが、地上戦は免れた。ヨーロッパの多くの国が地上戦に巻き込まれて甚大な被害を受けたことを考えると、空爆だけで戦争終結に至ったことの意味は大きい。本土の人的物的保全が、それなりにできた陰には、沖縄の犠牲があったからである。絶望的な自殺攻撃を「愚劣」だと切って捨てることは、後世の安全な時代にいるからできることで、他に何の方法もない場合を考えれば、そう簡単に言いきれるものではあるまい。

 沖縄戦での死者は日本側22万、米国側1万2千、そのすべての死者の名前がマブニの断崖の石碑に彫られている。その半分以上は民間人である。しかも、14歳以上は鉄血勤皇隊という臨時部隊に所属していたから、軍服を着て死んだのである。民間人の死亡原因には、戦死、自決だけでなく、栄養失調、下痢、熱中症、などの疾病の他に、餓死も多い。これは北部の山に逃げ込んで野宿しているうちに死んだ人が多かったからである。

 戦時でも平時でも子供は生まれるが、沖縄戦の2ケ月では、赤ちゃんはミルクはおろか水も無かったので、弱い命から失われて行った。

 縁もゆかりも無いのだが、沖縄には何だか借りがあるな気がする。

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2009年7月 6日 (月)

沖縄紀行

7 みなし子

朝酒氏は下船の案内放送が流れる頃、こう言って長い話を結んだ。

「戦争中も、戦争が終わってからも、沖縄の人は苦しかったですよ。でも一番苦しかったのは親父が死んだ家だったね」

私はこれから長男の家へ戻る彼のために餞の言葉を贈った。

親がわが身を犠牲にして子を生かすのは自然の摂理で、地球上の生物はみなそうして生きているのだと。鮭のような魚から、蜂やペンギン、熊、蛇に至るまで、親は命をかけてわが子を守り育てるのだ。子がしっかり育てばそれが親の本望ではないか、だから貴方の人生は、大層意味があったのではないかと。無言で聞いていた彼が顔を上げたとき、私はこの言葉が彼の心に届いたことを見てほっとした。

やがて船が与論島に着岸すると、彼は別れ際に手を差し出した。お互いに名前も名乗らないままに別れるのだが、もう二度と会う事もあるまいと思うと、人の出会いと言うものが、出会いよりは別れによって成り立っているような気がした。「人生足別離」の句を「サヨナラだけが人生だ」と置き換えた訳が、私には初めてしっくりと、腑に落ちた。私には彼のこれまでの一生がありありと見えて、通りすがりの縁なき人々ではなく、かなり深いところまで入り込んで、いわば、他人でない存在になっていたからである。第一印象で嫌な男だと思いながら彼の話に引き込まれて、最後には彼の存在がある威厳をもって感じられるようになっていた。

 想像するに、彼も生涯において、これほど自分を語った事も無かったように見受けられた。思いのたけを語りつくした後の、充足感と喜びが彼の表情を一段と明るくしていたようだ。握手を求めて来たのもその気持ちの表れだろう。

 タラップの横で、差し出した私の右手を強く握り締めた彼の両手は、驚いた事にぞっとするほど冷たかった。その冷たさが、彼の決して良くはなさそうな健康状態を示しているようで、私はとっさに感じてしまった。

(この人はあまり長生きしないかもしれない)

彼の身体に触れた事で、意識の底からまたぞろ浮き上がってきた死のイメージが、私に苦い思いをもたらした。私も長い間持病を持ち、それがいつでもどこでも不意に死のイメージを振りかけてくるのである。普段忘れていた死を、彼に触った事で思い起こしてしまった。その点、会話は空気が不導体になっているから、多少の事を聞いても言わば対岸の火事であるが、皮膚と皮膚が触れるとそうはいかない。否応無しに現実に触ってしまうのである。

岸壁に降り立った彼が、こちらを見上げてもう一度手を振ったのを見届けて、私は洗面所へ向かい、彼には悪いが石鹸をつけて手を洗った。洗い終わって鏡を見て、ふと何故そうしたのだろうと自問した。無意識の所作の分析は難しいが、多分、冷え冷えとした感触が気持ち悪く、死に繋がる潜在意識を洗い流そうとしたのだと思った。

あるいは、彼の手の触感から沖縄の現実に触ってしまったという感じを持ったせいかもしれない。文字、映像、自らの見聞から得た沖縄の姿は、こちらの考えや感覚、嗜好のフィルターを通して選べるので、実は案外自分にとって好ましい姿、或いは望ましい姿に集約されるのである。ここまでは、なまの現実ではない安心感があり、自分と現実の間には強固なバリアが存在する。だが、バリアを突き抜けた直の接触では、そのままの現実を、のっぴきならない現実を感じざるを得ない。

朝酒氏との握手で、私が触ってしまったのは、「戦後の沖縄」と言うものだったかもしれない。沖縄県民の約1/4が死んだ戦争は、おそらくその何倍かの負傷者を出したはずである。単純に考えても、生き残った3/4は全て負傷者ということになる。外傷であれ、心的傷害であれ、負傷者にとって長い戦後が待っていたのである。一家の柱を失って生きなければならなかった朝酒氏や具志堅君などは、負傷を間接的に受けたとでも言うべき例であろう。野生動物の世界では、親の庇護を失った子を待っているものは死であるが、人間も非情で過酷な運命から逃れる事はできない。

ニシテ父無キヲ孤、老イテ子無キヲトイウ

天下の窮民と呼ばれたこれらの姿が、今、野芋の形に似た沖縄の地図となって目の前に現れている。

沖縄は孤独の島であった。

終わり

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2009年7月 2日 (木)

沖縄紀行

6 寝るや一人の親のそば

同じ具志堅という苗字の年上の人がいた。親戚では無かったが同郷だった。もう1人の具志堅の悲痛な生涯を、朝酒氏は遠い目つきで語りだした。

戦争で父と兄を失ったところまでは朝酒氏と同じだったが、彼の母は足を負傷して畑仕事が満足にできなかった。中学の頃、自分から進んで漁師の年期奉公に出た。21歳まで務める事を条件に、まとまった契約金が貰える制度で、世に「糸満売り」とも呼ばれた。雇い主が因業な親父だと、実態は人身売買に変わらないが、親切なところに当れば、雇い人として扱って貰えた。いずれにしても、危険で過酷な仕事である事に違いは無い。また、雇い主とて命を張った仕事だから、年端も行かない少年に対しても1人前の要求をした。波の上では、なまじ優しい態度ではお互いに危地に陥る事が多いのである。大声で怒鳴るのは勿論、分からせる為には殴ることもよくあった。少年とて泣いている暇など無かった。その点、具志堅君は良く堪えて働いた。

ただ、普段はいいが、病気になった時には辛かった。少々の熱では休めなかったし、働いて治すのが漁師達の流儀でもあった。雇い主もそうして病を越えてきたから、彼もそれに習っていた。だが、ある時期にかかった風邪は治りが悪く、いつまで経っても咳が取れなかった。微熱と咳に加えて食欲も減ってきた。咳が妙に軽く調子の高い音に変わったころ、彼自身悪い病だと疑い始めたが、仕事を休むこともできず、医者に掛かる余裕もなく、周りの雰囲気も医者通いを忌む風であった。当時既にパスとかストマイなどの特効薬も出てはいたが、高価な薬を買うなどということは、無理な相談だった。しばらくして、ある日潜水を終えて上がって来た彼は、ふなべりに掴まったまま血を吐いた。赤い血が海に筋を描きながら広がる様子を見て、血の気が引いた。

事態を察知した親方は、たまには親を見てくるようにと暇をくれたが、伝染を恐れた体の良い隔離であるのは明らかだった。それでも少しまとまった金を小遣い代わりに持たせてくれたので、母親と下の兄弟達に最後となったお土産を買って戻った。朝酒氏が村道で出会ったのはその時のことだった。僅かの間に、すっかり背が高く険しい表情になっていた具志堅君に、恐れと尊敬の念を抱いたと印象を語ったものである。具志堅君は朝酒氏に母親がどの畑に出ているかを聞いた(皆が知り合いの村では、誰がどこにいるかをお互いに承知しているのだった)。彼は家へよらずに母親がいる畑へ直行し、驚く母をしり目にサトウキビの収穫作業を始めた。通りから見た人がびっくりした程の働きぶりで、その日だけで畑はあっと言う間に刈り取れた。そんなに働いては身体に毒だと、たしなめる母に「そう長い休暇ではないから」と言って笑顔を見せた時には、母もその意味を言葉通りに受け取っていた。

何日かはそのようにして親子で働いている姿があった。夜は眠りこけている彼の傍で、母が物憂い節回しの三線を引いていた。近所の人が立ち寄って、「いい若い者が年寄みたいに早い時間に眠り込んで」と笑って帰った。昼間の凄まじい働きぶりは村中の評判になっていたから、むろん好意的な笑いである。もう少し近くに寝ていたら、もう寝たのかいと肩でも軽く叩いていたような調子であった。

その翌日に決定的な事件が起こった。深夜家族が寝静まったころ、胸騒ぎで起こされた彼は直ぐに畑まで走った。キビ畑の中で窒息しそうなほど大量の喀血をすると、土をかぶせながら、ある決意を固めた。

あくる日はごく軽い作業で帰宅すると、彼は上機嫌で母や兄弟と夕食をとった。珍しく泡盛を飲んでごろりと横になると、母親に背をむけていびきをかき始めた。いびきが止んだころ、三線の音を背にした彼の目から流れ落ちる涙は床を濡らしていた。母は、この頃はもう何もかも知っていた。三線の上にもまた、涙が落ち続けていた。

翌朝早く、かれは海へ出てくると言って竿を持った。それが最後の言葉で、それきり行方が知れなかった。環礁の外の潮流に持っていかれたのか、誰にもわからぬままだった。

このくだりを聞いて、私は目頭を熱くした。表情を覚られまいと、朝酒氏に顔を背けて海を見ると、与論島の座布団を伏せたような島影はもう近く、相変わらず青く晴れ上がった空があった。遥か水平線上には少しばかり雲が湧いて、いつも通りの平穏で美しい景色だった。大海原は何万年もずっと不動の姿である。大自然は常に無音無言の静謐の中で全き調和の中にある。自然は何一つ変わらない。戦争の時も、人間がこんなに苦しんでいることも、あずかり知らぬ様である。私はその美しさに、ふと腹立たしさを覚えた。具志堅君の短い一生を思えば、彼は良い目を見ることなどほとんど無く、20歳を待たずに死ぬために生まれてきたのかと。宇宙を作った神は、生物を誕生させて競わせる。しかも人間という種同士をいつもいつも争わせる。何が面白くて人が人を苦しめるように仕向けたのか?

この時私は、この話の不自然さに気づいた。その夜の具志堅母子の情景を一体誰が見ていたのだろう?そして、自らこう解釈した。これは、具志堅君だけでなく、きっと朝酒氏自身の物語でもあったのだろう。どっちにしても、どこの家でも、このような話があり得た時代と場所だった。朝酒氏の里帰りもこんな風景の中にあったのだろうと思った。

薮入りの  寝るやひとりの  親のそば   (蕪村) 

ようやく朝酒氏に向き戻ると、彼はやや怪訝そうな、また何かを探るような目で待っていた。こちらの動きに合わせて視線を戻したのでなく、ずっと私の後頭部、延髄あたりを凝視していた目である。見透かされたような気がして、私は反発を覚えたが、彼がふと吐いた尋常でない言葉を聞いて、驚愕した。

「あの時は行方不明だったから、葬式代はかからなかった」。

私が見る見るうちに不快そうに顔をゆがめる様を、朝酒氏は淡淡と見ていた。ばつがわるいと言う風もなく、言い過ぎたかなと言う風もなく、微塵も動揺しない。それだけでなく、かすかな微笑さえ浮かべているではないか。これは優越者の余裕とある種の憐憫である。見ようによっては皮肉と軽侮とも受け取れる顔だ。これと良く似た表情は、かつて病室で見たことがあったことを思い出した。激しい苦しみを経て来た患者が、まだ症状の軽い同病者に見せる、あの優越感と、山を乗り越えてきたと言う自信、慰めとも思いやりともつかない励ましや心配り、あれと同質のものである。

私は混乱し、うろたえた。そして、ややあって、彼の意味にようやく思い至った。具志堅君は葬式代の負担をかけないように逝ったのだと。

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2009年7月 1日 (水)

沖縄紀行

5 ヒーロー

「具志堅用高を知っていますか?」と突然話が飛んだ。

無論ボクシング界のヒーローは知っているし、試合も見た。実は朝酒氏の遠い親戚に当るのだそうだ。誰の子がどこへ嫁いで何と言う子を産んで、それでもって云々という家系図はさっぱり頭に入らなかったが、とにかく血縁であると言う説明であった。縁戚関係の話ほど退屈で分からないものはないし、しゃべる方にしてみるとこれほど情熱を掻き立てるものもないのである。

朝酒氏は、それは楽しそうに自信に満ちて、具志堅の生い立ちからデビュー、世界タイトル奪取と、数々の防衛戦をおさらいしてくれた。彼の話を聞いて私は改めて、具志堅が達成した世界チャンピオン防衛戦13回と言う金字塔が、ボクシング界で如何に破天荒なものだったかが理解できた。1976年から1981年まで6年間王座を守った事は空前絶後と言ってもいい。とにかく世界一と言うのは、沖縄の歴史始まって以来だった。

「あの子は小さい時から上へ登ろう登ろうという気持ちが強い子だった」と語ったが、その点は飲んだくれている朝酒氏も、案外似ているのだろう。なまじ上昇志向が強いから、不遇をことさら強く感じざるを得ないのだろうと感じた。

「あの頃は沖縄中が沸きました」と良き時代を振り返るかのようだった。

1972年の日本復帰を沖縄県民は喜んだが、いざ日本国沖縄県になってみると、経済格差の大きさと、基地の存続と言う現実に「内地」と決定的に違う事を思い知らされた。劣等感は依然として強く、沖縄弁、沖縄訛りも恥ずかしく、内地の人の前では緊張して無口になったと言う。ところが具志堅はこの訛りを隠そうともしなかった。ありのままに振舞う彼を見て、県民は自信を持った。「沖縄の訛りがあっても恥ずかしくないのだと感じるようになった」。彼の拳が沖縄県民の言葉に対する呪縛を打ち砕いてくれたのである。その後、彼が切り開いた道を、上原、渡嘉敷、友利、新垣、浜田、平仲などのプロボクサーが続いて行った。沖縄一の繁華街、国際通りをオープンカーでパレードした姿に、県民は長年の鬱屈した思いを吹き飛ばして歓喜に沸いた。朝酒氏ならずとも、まっ先に自慢したい英雄なのである。

私の世代では、古橋が1500mで世界新記録を出した時の興奮と高揚感、或いは南極観測船宗谷の壮挙、マナスル登頂などが国民に与えた喜びと自信がそうだった。日本は駄目だと言われ続けて育った世代は、いつしか本当に駄目なのだと言う思いが沈澱して劣等感に浸っていたが、これらの出来事はコンプレックスを吹っ飛ばした。私もやればできると少年ながら思ったものだ。

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