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2009年7月 6日 (月)

沖縄紀行

7 みなし子

朝酒氏は下船の案内放送が流れる頃、こう言って長い話を結んだ。

「戦争中も、戦争が終わってからも、沖縄の人は苦しかったですよ。でも一番苦しかったのは親父が死んだ家だったね」

私はこれから長男の家へ戻る彼のために餞の言葉を贈った。

親がわが身を犠牲にして子を生かすのは自然の摂理で、地球上の生物はみなそうして生きているのだと。鮭のような魚から、蜂やペンギン、熊、蛇に至るまで、親は命をかけてわが子を守り育てるのだ。子がしっかり育てばそれが親の本望ではないか、だから貴方の人生は、大層意味があったのではないかと。無言で聞いていた彼が顔を上げたとき、私はこの言葉が彼の心に届いたことを見てほっとした。

やがて船が与論島に着岸すると、彼は別れ際に手を差し出した。お互いに名前も名乗らないままに別れるのだが、もう二度と会う事もあるまいと思うと、人の出会いと言うものが、出会いよりは別れによって成り立っているような気がした。「人生足別離」の句を「サヨナラだけが人生だ」と置き換えた訳が、私には初めてしっくりと、腑に落ちた。私には彼のこれまでの一生がありありと見えて、通りすがりの縁なき人々ではなく、かなり深いところまで入り込んで、いわば、他人でない存在になっていたからである。第一印象で嫌な男だと思いながら彼の話に引き込まれて、最後には彼の存在がある威厳をもって感じられるようになっていた。

 想像するに、彼も生涯において、これほど自分を語った事も無かったように見受けられた。思いのたけを語りつくした後の、充足感と喜びが彼の表情を一段と明るくしていたようだ。握手を求めて来たのもその気持ちの表れだろう。

 タラップの横で、差し出した私の右手を強く握り締めた彼の両手は、驚いた事にぞっとするほど冷たかった。その冷たさが、彼の決して良くはなさそうな健康状態を示しているようで、私はとっさに感じてしまった。

(この人はあまり長生きしないかもしれない)

彼の身体に触れた事で、意識の底からまたぞろ浮き上がってきた死のイメージが、私に苦い思いをもたらした。私も長い間持病を持ち、それがいつでもどこでも不意に死のイメージを振りかけてくるのである。普段忘れていた死を、彼に触った事で思い起こしてしまった。その点、会話は空気が不導体になっているから、多少の事を聞いても言わば対岸の火事であるが、皮膚と皮膚が触れるとそうはいかない。否応無しに現実に触ってしまうのである。

岸壁に降り立った彼が、こちらを見上げてもう一度手を振ったのを見届けて、私は洗面所へ向かい、彼には悪いが石鹸をつけて手を洗った。洗い終わって鏡を見て、ふと何故そうしたのだろうと自問した。無意識の所作の分析は難しいが、多分、冷え冷えとした感触が気持ち悪く、死に繋がる潜在意識を洗い流そうとしたのだと思った。

あるいは、彼の手の触感から沖縄の現実に触ってしまったという感じを持ったせいかもしれない。文字、映像、自らの見聞から得た沖縄の姿は、こちらの考えや感覚、嗜好のフィルターを通して選べるので、実は案外自分にとって好ましい姿、或いは望ましい姿に集約されるのである。ここまでは、なまの現実ではない安心感があり、自分と現実の間には強固なバリアが存在する。だが、バリアを突き抜けた直の接触では、そのままの現実を、のっぴきならない現実を感じざるを得ない。

朝酒氏との握手で、私が触ってしまったのは、「戦後の沖縄」と言うものだったかもしれない。沖縄県民の約1/4が死んだ戦争は、おそらくその何倍かの負傷者を出したはずである。単純に考えても、生き残った3/4は全て負傷者ということになる。外傷であれ、心的傷害であれ、負傷者にとって長い戦後が待っていたのである。一家の柱を失って生きなければならなかった朝酒氏や具志堅君などは、負傷を間接的に受けたとでも言うべき例であろう。野生動物の世界では、親の庇護を失った子を待っているものは死であるが、人間も非情で過酷な運命から逃れる事はできない。

ニシテ父無キヲ孤、老イテ子無キヲトイウ

天下の窮民と呼ばれたこれらの姿が、今、野芋の形に似た沖縄の地図となって目の前に現れている。

沖縄は孤独の島であった。

終わり

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